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 2009年 1月 〜 6月 の 今月のひと言 .

  "マルビ" のお蔭  2009年 1月 1日

 世界同時不況の真っ只中で迎えた新年。 大方の経済学者などの予想では景気回復に向かうのは来年との見方も多いとのことで、私達も今年は大なり小なり耐乏生活をよぎなくされることになるのでしょうか。 でも長い目で見て、そうした時代に耐えたことが後々良い結果をもたらしたと感じることも少なくないようで、今回私の経験からそうしたお話を、...。

 私自身、昔買ったレコードには今でも買って良かったと思えるものが多い一方で、最近買ったものには どうもそうしたものが少ないと思うことが多い感じがしてきていますが、どうやらその主因は マルビ (金持ちの "マルキン" という言い方に対する貧乏人の意味) のお蔭だったのではないかと思えるからです。

 自由に使える小遣い 月1,000円で、例えば トスカニーニ指揮の 「ウィリアム・テル」序曲 1曲だけが入って 850円の 45回転の EP盤レコード (片面の演奏時間で約7・8分) を買うのもやっとのことだった高校生の頃から大学生、社会人になっても、しばらくは レコードを 1枚買うためには後々後悔しないよう、新譜の批評などを本屋で立ち読みで読み比べ、楽器店では ジャケットを見比べして、金が手に入ったところで満を持して買うといった、いわば手をかけた買い方をしていたもので、まして衝動買いなどということは考えられなかったことでした。

 その後物価水準や給与水準が上がってきた中で CDなどの価格はむしろ下がって、その意味では良い時代になった分けですが、それらの買い方は昔に比べて我ながらずいぶんとずさんになり、結果的に長年愛着を持てる良いものが少なくなってしまったようです。 豊かになったことを言い訳にするのも 我ながらいかがかとは思いますが、豊かさがそうした意味のハングリー精神を減じがちなことも否めないと思います。

 それと、新聞にも新譜とその批評などの情報が載っていたり、レコードには店で タダで読める ジャケット (袋)の裏側に書かれた解説があり、...など、確かな情報が今ではかえって少なくなったことも、情報過多と言われるくらい豊かな社会の陰の部分のような気もします。

  撥 弦 楽 器  2009年 2月 1日

 NHKテレビ番組の 「名曲探偵アマデウス」 で この 1月に放映された 「楽器の王様 ピアノの秘密」 の中で、"ピアノの発した音は、ひとつひとつが必ず衰微して消え、したがって ひとつの音が クレッシェンドする (音量が大きくなっていく) ことはない" という、この楽器の性格というか、特徴が述べられていました。

 ピアノは弦を フェルトの ハンマーで叩く "打弦楽器" であり、それに対して、マンドリンや ギター は弦を爪で弾く "撥弦(はつげん)楽器" で、これらを使った音楽は "爪" の意の "プレクトラム" から発した "プレクトラム音楽" と呼ばれます。 ちなみに ピアノに似た チェンバロという楽器がありますが、これは、弦を爪で弾く、いわば マンドリン、ギター、ハープなどを ピアノのように鍵盤で奏くようにしたとも言える 撥弦楽器なのです。

 ヴァイオリンや 笛 (管楽器) などでは ひとつの音を長く持続させ、さらにその間 奏き手が力を込めることで クレッシェンドさせるなどということができますが、一方で太鼓などの打楽器はもちろん、上記の打弦楽器や撥弦楽器では それはできません。 マンドリンと チェンバロ ...が、それだけにこれらの楽器には 演奏者による ひとつづつの音の衰微の させ方に絶妙な味があることは見逃すことができない大きな点でしょう。

 マンドリンは トレモロ で演奏することがほとんどと言ってよく、一見 クレッシェンドさせることができているようですが、楽譜上ではひとつの音でも その音の トレモロの ひとつぶづつはやはり衰微していっていて、ちょうど 海底から湧き上がる泡の筋のようなものとも言えましょう (もっとも ひとつぶづつの泡は水面近くに上がってくると大きくなるので、その点は違いますが)。

 そうした いわば 泡の筋が描くような プレクトラム音楽は日本人の国民性にも合あっている、とは良く聞かれる言葉ではあります。 ...「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。」(鴨長明 「方丈記」 冒頭) などに感慨を抱く国民性だからかも、です。

  "お 針 子"  2009年 3月 1日

 今劇場公開されている映画: プッチーニの歌劇 「ラ・ボエーム」 の演出については、多分賛否両論あることと思い、ひと言。

 これは昨年の プッチーニ生誕150周年を記念して、当代きっての売れっ子である ネトレプコの ミミと ビヤソンの ロドルフォを主役に、19世紀末当時の パリの時代設定で作られたものですが、ドーンヘルム監督による演出は現代感覚そのものと言え、古い人間には眉をひそめさせるものがあると思いますが、現に私自身は昨年末に NHK-hi の放送で見て眉をひそめた一人ではあります。

 お針子の ミミと詩人の ロドルフォの最初の出会いは、伝統的な演出では、蝋燭の火が消えて困った ミミが たまたま同じ アパルトマンの上階の ロドルフォ達 ボヘミアンの住む部屋へ火を借りに行くところから始まりますが、この映画では ミミはわざと火を消して、「困った」 と言って火を借りに行きます。 ...つまり ミミの行動は、積極的と言えば聞こえは良いんですが、うそを言って男性に近づいたものであり、そこから二人の恋が始まって、やがて貧困が主因で別れ、暫くして ミミが結核を患って帰ってきて、ボヘミアン達の友情につつまれながら死ぬという悲劇に、私などは素直に同情する気がそがれてしまいました。

 それからもうひとつ、"蝋燭の火" で出会った二人が自己紹介をするうちに互いに恋が芽生え、..伝統的な演出では、二人が互いに生じた恋心を強く抱いて、友人達が待つ カフェへでかけて行くところで第1幕が終わり、劇中の時間的にすぐ後の 「ムゼッタの ワルツ」 のある第2幕へ続いていきますが、この映画ではその第1幕の最後にわずか数秒ですが この二人の ベッドシーンが入ってます。

 ミミの職業である当時の パリの "お針子" は、けっこう あやしい存在だったようで、そうした意味からもこうした演出も自然なものかも知れませんし、考えようによっては 伝統的な演出は 偶然の力を借りた きれいごとで、現代感覚からすれば、そちらの方こそ うそっぽく見えるのかも知れません。 でも人間の本性とはこんなもんだといった意図が見えるような話には、はっきり言って、気分を害されました。 せっかく いい歌の多い いい物語なのに。

ギター  話は変わりますが、この正月に NHKで放映された 「小沢征爾がいざなう オペラの世界」 の番組の中で 彼がこう言ってたのが印象的でした。...「僕なんかがこういう所で言っていいかどうか知らないけれど、演出家がね、(頭を指さして) おかしいのが出てきちゃってるんですよ、時々、..伝統を意識的に破ろうっていうようなね。 ...歌劇の解釈や時代設定をを大きく変えてしまうことがあるんですが、僕も古臭いのかも知れないですけど、これからどうなるのかと思いますけどね」。 ...新演出 あるいは オペラ革新 もいいですけど、困ったものです。

 あ、もう ひと言。...一昨年3月の公演で その小沢が指揮した ワーグナーの歌劇 「タンホイザー」 の序曲のところで繰り広げられる、現代設定で ヌードと阿鼻叫喚の地獄絵図ような演出も、(私には)(話の筋からその意図は理解できるんですが) どうも いただけまへんなぁ (-_-)、です。

  「ファンタジア」  2009年 4月 1日

 先月の新聞のコラムに赤川次郎氏が 「歌劇 『ジョコンダ』 の中にある 『時の踊り』 を聴くと、昔の ディズニー・アニメ映画の 『ファンタジア』 の カバの踊りが思い出されてしまう」 と書いていましたが、私もそうで、それだけ大昔に見たあの映画の インパクトは強かったと言えるのではないでしょうか。 ...日本人が 「三丁目の夕日」 のような生活をしていた 1958 (昭和33) 年からしても 18年も前、終戦からは 5年前に あの映画の中で そうした カバや ミッキーマウスが今と同じように動き回っていたんですから。

 この映画を知らない人は少ないとは思いますが、それらの人のために内容を紹介するなら、有名な クラシック音楽に アニメを シンクロさせた映画で、音楽に合わせて カバだけでなく ダチョウや ワニなども踊る「時の踊り」 、ミッキーマウスが とんでもない トラブルを起こす 「魔法使いの弟子」 の他、「トッカータとフーガ」、「花のワルツ」 や 「金平糖の踊り」 などのある 「くるみ割り人形組曲」、「春の祭典」、「田園交響曲」、「禿山の一夜」 など、内容的にも多彩なものとなっています。

 日本だけでなく世の中全体が ステレオどころか、モノーラルの SPレコードの時代に、"5.1サラウンド" ならぬ 9チャンネルの ステレオ録音。 膨大な人員と費用をかけて作られたものの、それだけの ステレオ音響を設置して上映する映画館も少なく、戦後しばらく経つまでは大赤字だったそうです。 今観ると映像や音の古さが目立つという人もいるようではありますが、私は、確かに一部粗い画像や音の硬さなど気にならないこともないとは思うものの、今の アニメに比べても遜色ない出来だと思いますし、多くの人が言うように、一口に あの時代の作として、やはり凄いものだと思います。

 私はあの映画から 60年経って作られた 「ファンタジア2000」 も巨大画面で見ましたが、それを見て、正直なところ "60年も経って、この程度の違いしかないのか" と思いました。 ...何年経っても色あせない音楽や絵画などの芸術作品と違って、映像・音響技術を伴う アニメなどには そうした技術の進展の成果を期待してしまいますが、そこは そう単純なものではないようです。

 目覚しく進展し、さらに多方面への広がりを見せている コンピュータ技術も、何十年も経って振り返って見ると、当初の立ち上がり時期の技術と比べて同じようなことが言えるのかも知れません。 ...考えてみれば現に身近かなところで、今 当サイトで聞こえる MP3録音と同じ音は 20年前当時の我が家の パソコンで聞こえていました。

  お と ぎ の 国   2009年 5月 1日

 メキシコ発の新型インフレンザ騒ぎに火がついて明けたこの 5月ですが、先月の中旬から下旬にかけての 10日間、ベネルックス3国を旅行してきました。 アムステルダムから ハーグ、アントワープ、ブリュッセル、ルクセンブルグ、ナミュール、ゲント、ブリュージュと周り、途中 古城や フランス国境の小さな村などにも寄る旅で、"おとぎの国々" とも言われるだけあって、街並みもきれい、季節柄 花や新緑もきれい。 お陰様で快晴続きで 、"これぞヨーロッパ ! "を堪能できました。 ベルギー: ゲントの景色

 かねがね想像していた "おとぎの国" の イメージは、むしろ "大人の国" と言った方が良さようで、経済大国・日本の田園調布でも少ない大邸宅の群や、小さいながらも センス良く メンテナンスされている家々、そして整然と統一された中に各々が独自性を主張している家並みなどを見ていると、"貧乏人など一体何処に住んでいるのか" などとも思わされました。

 今更ながらあらためて豊かで長い歴史の中で培われた センスの良さや共同体意識、そして誇りのようなものも感じられますが、一方で、生活臭というか、世帯じみた光景のほとんど見られなかった世界で、私などには住んでみたいという気にまでは至らない何かがあると思いました。 ..."アジアの混沌" と言うべきか、泥水の中で素ッ裸で泳ぎ回る子供達、道端で開業している歯医者や床屋、オートバイの洪水、魚醤のような匂いがただよっている繁華街、等々の光景が懐かしくもなります。

 多分に "汚い、臭い" などの イメージからか、アジアなどへは足が向き難い "きれい好きな人" も少なくないようではありますが、我々がとっくに無くしてしまった、あるいは忘れかけている感覚を呼び戻してくれ、そして将来に向けては消えていくであろうこの "混沌" の方が 貴重さでは勝るように思うんですが、...。

 ...そうした点、日本という国の光景は、不揃いで非風景な街並みや看板類などが目につき、とても ヨーロッパなどと比較に値するものではないにしても、(日本人だから手前味噌で思うことなんでしょうが) それなりにほどほどの バランスで成り立っているような気がしました。

  印 刷 物  2009年 6月 1日

 何ヶ月か前に ある大学マンドリン・クラブの演奏会を聴き行った時のこと、...入口で配られた パンフレットを 席についてから何気なく読んでいて、ある一点で釘付けになりました。 そこに書かれているある曲の解説文が、なんと! 私のこの サイト上の文章からの引用だったからです。 Net上での曲の BGMへの転載などとは違って解説文の印刷物へ転載は想定外だったこともあって、意表を突かれた感じがしました。

 念のため我が家へ帰ってからつき合わせてみると、"ある一点" どころか主要な部分のほとんどが そのまま転記されていて、家でも 会場でかいた冷や汗の再現 (^_^;;)、となりました。 ...考えてみれば、そこに私の名前が書かれている分けでもなく、まして今更私が気にする問題でもさらさらなく、冷や汗をかくなら、理屈として本来 Net上へ Upした時にかくべきものだったのでしょうが。

 私が育った時代は自分の名前や自分が書いた文章などが活字、つまり印刷物になって、広く他人様の目にふれることになるということなど滅多になかったこともあり、それらが印刷物で出るということは、 晴れがましさと不安とが入りまじった、一口に "ドキドキもの" で、そうした古い人間には 今でも印刷物に対してはそうした感覚が残っているのかも知れません。

 もっとも、誤字や文章上の問題点などがあっても数分で差し替えできる Net上の文章に比べると、後から直したくでも差し替えの利かない、そして比較的長期に保存されることの多い印刷物は、いつの時代でも より信頼性の高いものでなければならず、その意味でも "ドキドキもの" であるのも当然、とも言えます。

 ...とは言え、(それ以上に当たり前のことではありますが) 印刷物に比べて Netでは、差し替えも自由だし、皆気軽に載せている風だし、ということで多少なりとも安直でもいいという感覚があるとすれば、それが そもそもが間違いなのでしょうねぇ (^_^;)。



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